想い

「無尽灯」社名に込めた思い

“無尽灯”という社名には、『一人一人の心に火をつけ、燃え上がらせ、広がり、消えない炎となる、その源になる。』という想いを込めました。

また、この社名は宮崎県観光の父 岩切章太郎翁(以下、岩切さん)の著書「無尽灯」からいただいており、岩切さんへの敬意を表しています。

もし、私共が自分の胸の蝋燭の火をあかあかと燃え立たせていれば、かならず私たちに近づくすべての人の心の蝋燭にすぐ燃え移って、その人の蝋燭の火をあかあかと燃え上がらせるであろう。
こうして一人から二人と蝋燭の火を移していけば、たとえ一本の蝋燭の火は小さくとも、千本、万本と一緒に燃え上がっていけば、その火は一村を明るくし一国を明るくすることもできる。これが無尽灯というありがたい法門である。

岩切章太郎翁の著書「無尽灯」より引用

私は、人が潜在的に持つ力を本人以上に信じ応援しながら、その力の発揮を阻害するものは何かを考え、探求してきました。

一人一人が能力を発揮し挑戦を続け他者を応援する、一人一人が地域をより良いものにしようと工夫を重ねていくことができたら、この世界はより良いものになると確信しています。

「無尽灯」岩切章太郎/著

人との関わりから得た学び

私は、若い頃から様々なタイプの人と深く関わり続けてきました。 前職では個性が強く交渉が難航するような方々の対応を一手に引き受けたり、対立する人間関係の緩衝材として重宝されたりすることも多々ありました。 退職の際には、職場の同僚はもちろん、なぜか取引先の方々が送別会を主催してくれたこともありました。

自分にはない視点や価値観を持つ人を敬遠せず、「この価値観の源泉は何か」と考えることを楽しんできたことの成果が、実を結んだような気がしています。

また、20以上の仕事を経験することで、それぞれの置かれている環境や地位などから見える世界が違うことを実際に体感できたことも、かけがえのない経験です。

泣き、笑い、冷や汗をかきながら得た学びは生きた学問であり、人と関わり続ける今の仕事に活きる貴重な糧となりました。

「最高の笑顔で生きていく」と決めた10歳

10歳になった頃、とても悲しい出来事があり、毎日毎日泣いて悲嘆にくれたことがありました。しかし一週間ほど泣き続けたある日、ふと気づいたのです。

悲しいときに悲しい顔をするのではなく、最高に幸せな笑顔で過ごしていこう。一人の時は泣いていい。十分に悲しんだら、前を向く。 一瞬一瞬を大切に楽しみながら力強く生きる」と、強い心で人生に向き合うようになりました。

その際に、当時10歳だった私は「最高の笑顔で生きていく」と、決心しました。

「恩返し」を誓った18歳

18歳で大学進学を控えたある日、大きなショックを受ける出来事が起こりました。地元の大学への推薦が突然取り消されたのです。当時、経済的に困難な状況であり地元の大学が無理であれば進学は諦めるしかないと思っていました。

そんな私に「日本大学法学部法律学科法職課程に進学しませんか?」という話がやってきたのです。とはいえ、進学のための初期費用や学費などを準備できるはずもなく、何度もお断りすることになってしまいました。

しかし、周りの方々が「なにか方法がないか」と、利用できる制度を調べてくださり、たくさんの進学方法を提示してくれたのです。さらには、「優秀な学生の未来をつぶしたくはない」と全く面識のない方から支援の申し出がありました。その結果、日本大学法学部に進学することになったのです。

最終的には、学生職員という制度を活用することになりました。昼間は日本大学法学部の学生として学びながら、夜間は経済学部二部の学生職員として働くことになりました。

このとき、私は「恩返しができる自分になる」と、強く心に誓いました。

「恩返し」 できない自分を責め、自分の価値を認められなかった20代

支援者をはじめ、たくさんの方々から信じられないほどの応援をしてもらった私は、自分が受けたサポートと同じことを他者に為すことができない自分を厳しく責め始めていました。「恩返し」ができないまま、これでは支援者に顔向けができない、という思考を止めることができない日々が続きました。月日は流れ、支援者が亡くなったことを耳にし、さらに自分を責めるようになりました。

当時の先輩に、どうやってお返しすれば良いかわからないと相談すると、「恩は受けた人に返さなくていい。将来、同じように目の前に現れた人に自分ができることをしてあげればいいんだよ」と教えてくださいました。

「恩返し」ではなく「恩送り」を

「恩返し」ではなく「恩送り」をする。同じことをするのではなく、私ができる貢献で目の前の人々やお世話になっている地域に「恩送り」として貢献していけばいい、と自分の中で人生のテーマを書き換えました。

それからは自分ができる「恩送り」について考え続け、実践し続けてきた人生でした。

たくさんの人と深く関わり、悩んだり笑ったり、人と真剣に向き合ってきた数と関わった人の多様性は誰にも負けない自信があります。

十人十色、ひとそれぞれの違いを楽しみ、視点を集めながら生きてきました。

そんな生活を続けていくうちに、もっと一人一人の人生のストーリーが知りたいと思うようになりました。 自分が持っていない価値観や視点に触れたい、という思いが強くなりました。

宮崎にUターン

人との関わりを楽しみながらも、当時勤めていた投資信託の運用会社で目まぐるしく変化する金融情勢を追いかける日々が続きました。大量のデータをもとに即時対応をこなさなければならず、毎日多大なプレッシャーを感じていました。そのうち、たびたび郷土宮崎の空や海が恋しくなり、その都度帰省してリフレッシュすることが、私にとって小さなご褒美となりました。

幼少期は当たり前だと思っていた宮崎の風景の美しさ、自然の豊かさに惹かれるようになり、気が付けば毎月宮崎に帰省するようになっていました。それから約一年後、宮崎にUターンすることを決めました。

岩切章太郎翁への感謝

宮崎にUターンし、心に残る風景、美しい景観に改めて感動させられました。と同時に「いったい誰がこの景色をつくってくれたのだろう」と興味が湧きました。そこで、まず私が大好きな“堀切峠”について調べたところ、岩切さんがフェニックスを植え足したことでこの景観が作られたことが分かりました。また、私の幼少期の思い出の場所である“こどものくに”は、岩切さんが「私の銅像はこどものくにだ」と発言するほど、思い入れのある場所であることも分かりました。さらに調べていくと、「宮崎県の主な観光地のほとんどに岩切さんが関わっている」と言っても過言ではないと分かったのです。

私の心が動く景観、場所、すべてに岩切さんが関わっている」と感じ、 岩切さんに感謝せずにはいられませんでした。

宮崎市役所 岩切章太郎翁像

湧き上がる想い
「岩切イズムを伝えたい」

岩切さんを知れば知るほど、その思いに共感し尊敬するようになりました。 著書の中で「まずにっこり」することの大切さを説いていたことを知り、10歳の頃の自分が励まされたような気持ちになりました。また、岩切さんの「心配するな、工夫せよ」という考えは、全速力で走っていた大学時代の自分の生き様をまるごと肯定されたように感じました。

この岩切イズムを学問として深化させ、伝えていきたい」 そんな想いが私の中で湧き上がってきたのは、とても自然なことのように感じています。

「民間知事」を目指して

「民間知事」とは、岩切さんが自分の志を口にしたものです。政治を行う知事ではなく、「民間の立場でありながら知事のような視座を持ち、粛々と地方で一隅を照らす存在」なのではないかと推察しています。わたしも岩切さんのような「民間知事」を目指したいと心から思っています。岩切さんの足元に遠く及ばなくとも、そのライン上に志を置き、私にできる貢献で〝一隅を照らす〟ことを目標に、日々邁進していきたいと思います。

株式会社 無尽灯
代表取締役 黒木 ゆき